1999年6月27日(日)

 東大弥生門前にある弥生美術館に初めて行き、『少女の友』展を観る。中原淳一はやはりスゴイ。後でじっくり褒める。竹久夢二美術館が隣にあるのでそっちにも行ったが、「隣にある」というよりも、一心同体だった。
 弥生まで来たら、秋葉原と古墳時代は近い。ので、このまま帰るわけにはいかず、やむを得ず秋葉原へ。
 秋葉原まで行って何も買わずに帰る柴刈りじいさんはいないので、しかたなくVRAMを買う。でも1MBだけ。ケチ。

1999年6月21日(月)

 ダイアルアップでも参加できる家セチ(SETI@home)は、宛名書きとかの内職っぽくていい感じ。クライアントソフトがスクリーンセーバになってて、パソコンが遊んでる時間にデータを解析するってのも、周期がすげえ短い二毛作みたいでいい感じ。
 未明に、家セチサーバはまだ死んでるだろうと思いつつも作業ユニットのダウンロードを試みたら、できた。ので、早速解析開始。実にデンシケーサンキらしい仕事なので、関(私が使ってるMPC-GX1 LIMITED)もご満悦の様子。
 しかし関よ、ご満悦なのはいいが、計算がムチャクチャのろいぞ。まるで嫌がらせでもしてるかのような牛歩的のろさ。この仕事、G1の関には荷が重い。やっぱG3買わなきゃだ。
 セチはさておき、ボロチャリじゃなくて東葉高速線などに乗って高橋真琴さん宅へ行く。広い敷地の一角にある真琴画廊は、小さな画廊だろうとは思っていたが、想像以上に小さい。まるで交番だ。が、その小ささがいい。
 高橋真琴さんはとてもいい人だった。いろいろ褒めたいところだが、後でじっくり褒める。

1999年6月14日(月)

 大井とともに三越前に行ってしまったため、その帰りにやむを得ず秋葉原へ。
 秋葉原に行って何も買わずに帰るのは、おじいさんが山へ柴刈りに行って何も刈らずに帰るようなものなので、やむを得ず15インチモニタを買う。

1999年6月13日(日)

 今日は私がかかった。

1999年6月12日(土)

 今日はごきぶりホイホイに大井がかかった。流し直下に建てた赤い屋根の小さな家に巨足を突っ込み、嬉しそうにジタバタしている。
 大井を見殺しにした後、ボロチャリで中央区湊の鉄砲州稲荷神社境内にある鉄砲州富士へ。しかし、「一種の労災」の季節到来で、ゆっくりできず。その後は、他人様の家のMacをインターネットに繋げる旅。ご褒美として焼肉を食わせてもらう。

1999年6月6日(日)

 早朝、ボロチャリでJR武蔵境駅近くにある杵築大社へ行き、境内にある富士塚に登る(武蔵境に富士塚があるということは、『コンフォルト』編集長の多田君枝さんに教えてもらった)。これを一応、「境富士」と呼ぶことにしよう。さらに足を延ばして清瀬市中里の富士塚にも登る。これは「中里富士」と呼ぶことにする。練馬区の中里富士(大泉富士)と混同しそうだが、まあいいや。
 境富士は鬱蒼としていて、溶岩をふんだんに使っている。一方、中里富士は毛無山みたいで明るく、溶岩をほとんど使っておらず(「全く使われていない」と言われているが、麓に多少溶岩がある)、対照的だ。
 しかし、どっちの富士塚も「まあこの辺かな」と適当に行ったら、あっさり見つかってしまった。ずいぶんと富士っ鼻が利くようになったと言わねばなるまい。言わなくてもいいが。
 さて。昔からの私の夢は、赤い屋根の小さな家を造り、その家でパーティを開くことだった。ので、生まれて初めてごきぶりホイホイを買って帰宅。赤い屋根の小さな家を組み立て、心の中でゴキブリさんたちに招待状を発送する。ワクワク。

1999年5月31日(月)

 コンフォルト編集部でフロッピーディスクを摘出したり、新宿のソフマップでMOディスクを購入したりした後、ザ・スタディールーム下北沢店で聴診器を購入。この店で聴診器を売っているということは、聴診器ユーザー(そーゆー意味でなく)の西村佳哲さんに教えてもらった。この店、サルの頭蓋骨なども売っている。
 家に帰って早速いろんな物の中の音を聴いてみる。無論、Macにも聴診器をあててみる。だが、聴診器で聴くべき音は、なんと言っても自分の心音だ。だって、他の音なら直接耳をあてて聴くことができるかもしれないが、自分の胸に耳をあてることはできない(普通の人は)。頭が入らないような狭い場所に耳を持っていきたい時も、聴診器の出番だ。かゆいところに耳が届く。聴診器とは、マジックハンドならぬ、マジックイヤーだ。
 で、そのマジックイヤーで自分のナマ心音を聴き、大井の心音も聴いてみたんだが、なんか、私の鼓動のテンポがやたら速い。とてもリラックスしてるのに。まさかとは思うが、もしかしてオレは小動物なのか?

1999年5月25日(火)

 深夜、トイレの水を流した時、人の声が聞こえた……と思ったが、幻聴・錯聴だったようだ。やはり、水が勢いよく流れる音と幻聴・錯聴は仲がいい。水の流れる音は複雑で豊かな音だから、脳はその音の中から必要な成分を抜き出して、音を勝手に再構成することができる。

1999年5月20日(木)

 深夜、ジム・キャリー主演の『ケーブルガイ』のビデオを借りて観る。笑うことと怖れることは概ね同じだということが、ジム・キャリーの演技を通して確認できる。
 『エース・ベンチュラ』でジム・キャリーを知ったのはもうずいぶん昔のことだが、最近、ジム・キャリーづいている。アメリカのアニメの、あのやたらクネクネしてオーバーアクティングな動き。ジム・キャリーはあれを実写でやる。『マスク』は素晴らしい。どこからがCGでどこからが実写かわからなくなってしまうくらい、CGとオーバーな演技が融合している。もちろんそれはCG技術に負うところ大なのだが、しかし、ジム・キャリーの演技はCGと仲がいい。他の役者ではこうはいくまい。

1999年5月14日(金)

 都内の水族館で、カエルや海獣、ペンギン、魚(水中スピーカーを使用)などとの反則的異種ホミを試みる。が、やりにくい。アシカかアザラシか、とにかく鰭脚類に向かってホーミーしたら、その鰭脚類がホーミーを聴きながらションベンをお垂れになりやがってくださり、たいそう臭かったのが一番の収穫か。

1999年5月9日(日)

 夜、今年初めてフクロウ科くさい鳴き声を耳にする。この声を3年連続して聴いているが、声の主をまだ突き止めていない。城山に野生のフクロウがいるのか? それとも飼いフクロウ? それともフクロウじゃないのか? とりあえず、声の主が私でも大井でもないということは突き止めたので、捜査の対象はある程度絞り込まれたと言えよう。

1999年5月7日(金)

 ケーアンドケーで打ち合わせした後、池袋本町三丁目の氷川神社境内にそびえる池袋富士へ。柵で囲われているが、「さあどうぞ」と誘うように戸が開いている。だがしかし、戸のすぐ向こうに「お山にのぼらないでください」という立て札。入っちゃダメだけど、入ることができる。登ることができるけど登っちゃダメ。イヤよイヤよも好きのうち。じゃないか。まあとにかく、誘いつつ禁ずるところがニクイ。
 この富士塚の頂上には、なんと、拡声器が設置されている。富士塚の前には土俵があるが、ここで相撲を取って、物言いがついた時、頂上の拡声器から「東の勝ちじゃ」と神の声が聞こえてきて勝敗が決まるのかもしれないし、逢魔が時に子どもが境内で遊んでいると頂上の拡声器から「もう帰りなさい」と声が聞こえてくるのかもしれないが、いずれにしても富士山がそうおっしゃるんだからしょうがない。
 池袋富士から板橋駅へ行く途中、マンションらしき建物を派手に解体していたのでしばし見物する。先っぽがハサミになってるクレーン車みたいなのが、ガシッと建物に食らいつき、ぶち壊していく。その様がとても生き物っぽい。巨大な蛇、いや、ドラゴン型の怪獣のようだ。

1999年5月5日(水)

 松坂がノックアウトされて雨が降ったため、昨夕、夜行富士見登山会兼山頂ホミ練の延期を泣く泣く決定した。が、半日以下の異常に短い延期で早朝に出発。目指す山は予定通り三ツ峠。ただし、コースを変更して、富士急三つ峠駅から表口登山道を行くことにする。終点の河口湖駅まで行き、バスで回り込んで裏口から登った方がずーっと楽なのでそうしようかとも思ったが、「正々堂々と正面から登りたい」と婦人部の大井が言うのでそれに従った。
 正面から行ったのは大正解だった。拝殿が面白い大山祗神社、三ツ峠型の公衆便所(「三ツトイレ」と命名しておいた)、ホントにダルマさんみたいなダルマ石では「三つ峠でロックする方へ」と警察が愉快に注意を促し、地面から首だけ出てたりしてかなり怖い八十八大師やちょっぴり危険なところが魅力のガレ場、若い遺跡の白雲荘跡、水もしたたる屏風岩の絶壁、鯉のぼりが少ないことをしきりに気にかけるマルタ君等々、見どころが多く実に楽しい登りだった。地図を見たかぎりでは結構しんどそうなコースだったが、実際は大したことなく、しかも、雨の後ということもあって地面が軟らかくて脚が疲れないし、タバコをやめたからなかなか息が切れない。
 丸見えの富士山などを存分に眺めつつ開運山で昼飯。木無山でちょびっと仮眠(日ノ出山頂ホミ練の時の山頂ダイイン状態が再現された)した後、異常に短い山頂ホミ練。
 下りは府戸尾根を歩いて天上山ロープウェイ富士見台駅へ(途中、霜山と天上山には登頂したが、新倉山の山頂は巻いちゃった模様)。ロープウェイで河口湖畔に下りると、駅の構内にゲーコー(ゲームコーナー)があり、そこに100円で運勢を確かめる神社型マシンがあった。が、残念ながら神様は故障中だった。湖畔でラベンダーソフトクリームを食って体を冷やしたり、土産物屋に入ったりした後、河口湖駅から特急ふじやま号に乗って帰る。

八十八大師(部分)
八十八大師

1999年5月1日(土)

 今日もいい天気。だが、連休前半にいい天気を使い果たしてしまい、連休後半は天気が崩れるらしい。ちゃんと「晴れましょう」って呼びかけておいたのに何をやっているんだ。
 午前、新宿のソフマップに行ったら、iMacに似合う灰皿が売っていた。たしかに、灰皿ってのは、Macの周辺にある器だし、Macを使ってる時に灰皿も使うから、Macの周辺機器だ。iMac用灰皿っちゅうのがあっても一向におかしくない。iMac用灰皿。それをパソコンショップが売る。いいぞいいぞ。気に入った。

1999年4月30日(金)

 ボロチャリで駒沢公園、ねこじゃらし公園等を経て自由が丘へ。昔からMac雑誌の広告でよく知っていたMJソフトに初めて入る。それにしても自由が丘は女の街だ。MJソフト(のMac館)がある通りは「マリクレール通り」だもんなー。三和銀行までピンクだし。
 自由が丘から九品仏に行く。浄真寺の広い境内の奥には、瓜三つのお堂がドン、ドン、ドンと等間隔で一直線に並ぶ。真ん中が次男……じゃなくて上品堂で、向かって右が中品堂、左が下品堂。そしてこの三仏堂のそれぞれの中には、これまた瓜三つの阿弥陀如来坐像の巨体がデン、デン、デンと一直線。合わせて瓜九つの阿弥陀さんが、3体ずつパックされて横一直線。大味で、とても数学的だ。
 上品堂の真正面には本堂(釈迦堂)があり、向かい合っている。つまり、本堂から中品堂までの距離と、本堂から下品堂までの距離は同じ。三仏堂の直線を底辺とする二等辺三角形の頂角に本堂がある。ので、さらに数学的だ。寺というのは数学的に見えるもんだが、九品仏の「数学度」の高さは天下一品。
 というわけで九品仏は実に数学的になっていてとても面白いと同時に、実に数学的になっているのでとてもつまらない。とても面白くてとてもつまらないところがとてもいい。
 で、なんでまたこんな配置になってるのかというと、まず、阿弥陀さん1体だけでもでかいパワーが3体でビビビと堂内増強され、さらに、その増強されたパワーが三仏堂を出て一直線に本堂に向かい、3体×3堂のパワーがガガガと集結。そこで本尊のパワーとズバーンと合わさってものすげえパワーになって、そりゃもう……っていう意図があるように思う。いかにもそういう感じの配置だ。
 帰りにまた駒沢公園を通り、パークサイドのパン屋さんでパンなんか買っちゃったりして、池の畔で食うなどというこじゃれたことをやる。代官屋敷にも寄ってみたが、表札に書かれたファーストネームは、区長のファーストネームとは違っていた。が、まあ、どーでもいいや。

1999年4月29日(木)

 今週日曜に世田谷区長と区議の選挙があって投票しに行った。が、区議選の方は、誰が当選したのか知らないし、そもそも自分が誰に入れたのか覚えていないという厳しい状況。区長選の方はちょっとマシ。自分が誰に入れたかはやっぱり覚えてないが、現職候補以外の誰かに入れたことは覚えている。しかも、現職の大場さんという人が当選したということを知っている。大場さんがどんな人なのか全然知らないが、大場政権は、なんか長期政権のような気がする。
 で、もう4日も前のことなのでこの選挙のことはすっかり忘れていたんだが、今朝ふと、「大場」という名まえが頭に浮かんだ。世田谷のボロ市通り沿いに江戸中期の代官屋敷が残ってるんだが、そのお代官様の名まえが、そういえば「大場」だ。大場区長はその代官屋敷のお代官様なのではないか。そんな気がとてもする。そのことを大井に話すと、大井は「じゃあしょうがないか」と言う。なんだそりゃ。何がしょうがないんだ。
 いや、大場違いかもしれないんだが、でも、世田谷の世襲代官だった大場さんが、平成の今、世田谷区長をずっとやってるんだとしたら、それってちょっと、なんかこう……しょうがないか。
 泣く子と地頭には勝てないがお代官様にも全然勝てなさそう。だからお代官様が選挙に勝つのだ。世田谷の政治は江戸時代からあんまし変わってないのだ。世田谷は今も村なのだ。いっそのこと、世田谷区だけは「区長」でなく「代官」と呼ぶことにするってのはどうか。冗談でなく。
 というわけで、奥様は魔女かもしれないし、恋人はサンタクロースかもしれないし、区長はお代官様かもしれないし、まあ世の中いろいろあるわけだが、ところで今日は旗日だ。世田谷の街を歩いていたら、一軒だけ、旗を出している家があった。そしてそれがなんか、いい感じだった。
 その日の丸を見るまでは、今日は「祝日」だとは思っていたが、「旗日」でもあったということを忘れていた。私が子どものころは、旗日にはもう軒並み旗がハタハタしてたと思うが、今、旗日の日の丸は、絶滅危急状態(田舎ではもっとハタハタしてるだろうけど)。つまんないよなあ、こういうお約束が廃れちゃうのって。
 と言ってるくせに、さる家も旗を出していない。日の丸なら、ちゃんとでっかいやつを持ってるのに。よし、今から出すか……とせっかく思い立ってみたものの、もう日が暮れているのだった。まあよかろう。今日は黄金週間初日。旗を出すチャンスはまたすぐにやってくる。見てるがいい。

1999年4月27日(火)

 午後、大井とともにチャリーズ(「自転車」の複数形)で世田谷区岡本の岡本公園+岡本静嘉堂緑地へ。次大夫堀公園にも民家園があるが、この岡本公園にも民家園がある。どっちの民家園も、とても生活感があって、家が生きている。そこがいい感じ。家をちゃんと使いつつ保存しているからだ。
 岡本には、金持ちのでっけえお屋敷がゆったりと建ち、集合住宅も管理事務所が文化財だったりして悠然としてらっしゃる。で、ボリュームたっぷりの緑やせせらぎなどの管理された「自然」の豊かさに、仲代さんの無名塾や、美術館や文庫やドミニコの文化と教育の香り。私らのような下賎の者には似合いませんなあ。

1999年4月22日(木)

 いい天気。ボロチャリで練馬区大泉の八坂神社脇にそびえる中里富士(大泉富士)へ。途中、練馬区立もみじ公園に富士型の人造山があったので、熟考の末「もみじ小富士」と命名。もみじ小富士のすぐ近くには「もみじ山」と呼ばれる山があり、他にも清水山、稲荷山、越後山など、この辺には山が多い。畑も多い。畑がすげえ匂う。ええ匂い。のどかだ。
 正面から見る中里富士は、デカイ。山裾にある胎内もデカイ。デジカメで激写しつつ登頂。
 帰りに三宝寺池+石神井池と練馬区郷土資料室に寄る。三宝寺池はこりゃまたええところだ。池を眺めてたら超小型のネッシーのようなものがシャーッと横切った。アオダイショウだ。カメはぎょうさん甲羅を干してるし。こりゃワニのひとつも出て来よう。なので、一応探してみる。いい心掛けだ。我ながら。
 和田堀公園などを通りつつ帰る途中、杉並区議候補だか区長候補だかがよろしくよろしくよろしくと異様に白い手を振る。よろしくと言われても。

1999年4月19日(月)

 マックに今日が私の誕生日だということを教えられる。去年もそうだったと思う。毎年すみません。
 午後、『コンフォルト』編集部員とさるすべり従業員を総動員して浦安市に進軍。清瀧神社と豊受神社の富士塚に登る。清瀧神社の富士塚は、なんと、『コンフォルト』副編集長の内田みえさんのヒーヒーヒージーサンらが中心になって築造されたものらしい。実際、富士塚に立つ登山者の石像に「内田忠次郎」と刻まれている。
 その後、総員が内田さんの育った家を訪問。予期せぬ御馳走にありついて総員恐縮する。ところがどうだろう。内田さんだけ恐縮していない。当たり前か。

1999年4月16日(金)

 夜、ある雑誌の創刊準備の集まりに大井とともに参加。結構な人数だ。そこでふと気づくとホーミー練習会を始めている私だったが、その後、ホッピーでハッピー党の笹目伸治さんやパルコを辞めた伊藤美恵子さんらと、ハッピーになるためにホッピーを飲みに行く。
 ここまでのカタカナ単語はすべてハ行で始まっている。ホッピーを飲みながら話すうちに、伊藤さんが北方系の「2世」であることを知る。ソ連(懐かしい名詞だ)に国後島を追い出されて札幌に移住した親を持っているので、日系2世みたいに「2世」と呼ばれているのだ。移住したくなかったのに移住させられた「1世」さんは不運だったが、「2世」とは、こりゃまた無性に羨ましい響き。あらゆる面で「非世」の私としては、日系でもフレデリックでもなんでもいいから2世に生まれたかった。3世でもいい。16世ならルイ以外。

1999年4月13日(火)

 深夜、幻聴映画『パラサイト・イヴ』のビデオを借りて観る。ミ、ミ、ミトコンドリアー! ミトコンドリアの胸が、胸が少女まんがだー! そして愛の炎が具体的。さらに言えば、ジュリア・ロバーツ主演の『愛がこわれるとき』も借りてきたが、しまったー! 間違えて日本語吹替版を借りてしまったー! タバコをやめてからこういう凡ミスが多い。
 でもなー、字幕スーパー版と日本語吹替版の区別がもっとはっきりつくようにしてほしいよなー。こっちはタバコやめたんだからさー。例えば、日本語吹替版を棚から取り出したら、プア〜……って雅楽が流れて警告するとか。「君が代」が流れて棚の上にスルスルと日の丸が揚がるとか。

1999年4月4日(日)

 深夜、大井とともに上町の天祖神社境内にある鉄棒にぶら下がる。うー伸びる伸びる体が伸びるうー。うー。ぶら下がり健康器が欲しくなる。……うー、あれはこのようにして深夜に開発された商品だったのかもしれない。

1999年3月24日(水)

 ボロチャリで荒玉、環七等を通って練馬区に入り、豊玉南二丁目の正覚院と氷川神社、豊玉南三丁目の富士稲荷、北町一丁目の下練馬富士を歴訪。続いて板橋区に入り、赤塚四丁目の上赤塚富士と大門の下赤塚富士へ。
 さらにもうヒトフジ。練馬区にもどって北町八丁目の氷川神社境内にある富士塚へ。これは「氷川神社富士塚」という名を与えられているが、気に入らない。私は「大松富士」と呼ぶことにする。
 っちゅうわけで富士三昧。今日行った富士塚や富士塚の疑いのある山は、どれも自由に登頂できる山だった。だからすべて登頂。気分よし。
 富士三昧の途中で板橋区四葉ニ丁目の稲荷神社にも寄り、運良くキツネが子どもに乳を与えているところを目撃。だが、よく見ると野生のキツネではなく、石だった。よく見なくても石だった。あと、氷川台で10円拾った。うしし。

1999年3月18日(木)

 いい天気。小田急線秦野駅から渋沢駅行きのバスに乗り、菩提原で下車。葛葉ノ泉、菩提峠を経て、標高899mの岳ノ台(ダケノダイと頭を濁して読むらしい。変なの)に登る。久しぶりの丹沢だ。
 途中、猫がウンコする時に選ぶような、メチャクチャ見通しの利くすがすがしい場所で立ちションしてるおっちゃんを見かける。さすがだ。なんとなく。
 菩提峠からちょこっと登るとハンググライダーの離陸所があり、南側の見晴らしがとてもいい。ので、すがすがしい立ちションの誘惑に駆られる。
 風神に小銭を払ったりしてるうちに岳ノ台頂上に到着。展望台があり、北の札掛方面を向くと、右手に大山がドーン、左手に二ノ塔、三ノ塔がデーン、表尾根の右奥には丹沢三峰がヨイショヨイショヨイショ……またもや見晴らしがいいので立ちションの誘惑。
 誘惑はさておき、この展望台、鉄柵は錆びまくりボロボロ。タイルは剥げまくり粉々。その廃墟感がいい。すでに遺跡の域に達している。
 しかし……岳ノ台の頂上にはケルンがあるというのでそれが目当てで来たのだが、賽の河原の石積みが肥大化したような、登山者がひとつずつ積んでいって高くなったケルンはなく、それらしいものといえば、石をセメントで接着して積んだ方向指示盤があるのみ。これってケルンなの? たしかに石塚ではある。そうかこれもケルンなのか。知らなかった。
 頂上から道を間違えたりしつつヤビツ峠に下りると、売店は相変わらずだったが、売店の向かいに異様にご立派な公衆便所ができていて、峠がなんか綺麗になっている。公衆便所は峠にどっしりと鎮座し、かなりの面積を占領して他の何よりも目立っている。しかしこれはこれで、排泄こそが最も大切、ということを表しているようで、よいかと思う。
 ヤビツ峠からは春岳沢を下る道を通って蓑毛へ。この道は、かつて表尾根を縦走した時に登った道だ。が、下るのは初めて。蓑毛からさらに少し歩き、青年橋で秦野行きのバスに乗って帰る。

1999年3月17日(水)

 アメリカから里帰り中の妹が「オシッコの音はホーミーに似ている」と主張して怪気炎を上げている。なんだそりゃ。もしホントだとしたら、あくまで「婦女子が洋式便器で婦女子式の放尿をした時の音」がホーミーに似てるってことだろう。私も婦女子式放尿をしてみるが、尿の勢いが足りなくて音が出ず。
 うーん、ホーニョーの音がホーミーの音に似ているとはあまり思えないが、しかしこの話、神戸岩ホーミーローレライ伝説につながる。滝の音と放尿の音。滝壷と便器。ホーニョーローレライ伝説。

1999年3月15日(月)

 エロガエル復活。今日はとても暖かい。祭典は終わったわけではなく、寒いからエロ休めしていただけだった。

1999年3月14日(日)

 朝、ボロチャリで文京区向丘の海蔵寺へ。この寺の墓地に富士講中興の祖、食行身禄の墓がそびえる。ミスマッチなシュロたちがいい感じ。
 海蔵寺からは駒込富士が近いので行ってみる。富士神社のダーッと真っ平らな境内の奥が突然もっこりしている。それが駒込富士。この富士に登るのはたぶんこれで3度めだが……前もこんなだったっけ? なんか、石碑や石灯ろうなどの文字やアイコンが赤々と塗られてて、毒々しい。が、寺山修司っぽくていい感じ。
 駒込富士の後方には富士前公園があり、そこにも低くて平べったい人造山がある。これを富士の三足のひとつ、足和田山に見立て、「駒込足和田」と命名しておく。
 不忍通りを通って帰ることにする。そうすると桂昌院さんの護国寺の前を通るので、境内にそびえる音羽富士に再登頂することにする。しかし、境内でなんか作業してて、音羽富士の鳥居のあたりは物置にされていた。寺の案内図にも相変わらず音羽富士は載ってないし。あ、音羽富士に猫がいる猫が。おまえ、自分を虎岩に見立ててるのか? だったら動かないでじっとしてろ。
 また荒玉を通って帰る。

1999年3月11日(木)

 雨の日は眠くなる。夕方、「ちょっとぐったりしていい?」と大井に訊いたら快諾してくれたので、ベッドでぐったりしてみた。そしたら熟睡してしまった。すみません。

1999年3月9日(火)

 今夜はエロスの祭典がない。祭りは昨晩で終わりか。それとも、今日は寒いから休みなのか。
 深夜、『マスク・オブ・ゾロ』のビデオを借りて観る。ゾロが大文字ならぬZ文字の送り火を焚いていた。あそこをZ文字山と命名しておく。毎年焚けよ。

1999年3月6日(土)

 このところ、夜な夜な両生類クサイ鳴き声が聴こえる。密林の鳥の鳴き声、あるいは哀しいサルの声のようにも聴こえ、大変いい感じ。だがまあ、両生類の鳴き声だろう……と思っていたが、やはりそうだった。宵の口に大井が玄関で手招きするので外に出てみると、そこはエロスの祭典。隣家の庭には小さな人造池があるんだが、そこでカエルたちがヤラシイことをやってらっしゃる。たぶん、城山に棲息していて、春になるとこうして山からこの池に下りて来て産卵するんだろう。
 啓蟄だし、春一番も吹いたし、そういえば春告鳥の声も聴いたし。春だなあ。嬉しいなあ。
 深夜、カエルの唄の録音に精を出す。

 ●カエルの唄(AIFF 36KB)

1999年3月2日(火)

 朝、徒歩で世田谷区立中央図書館へ。だが、9時開館だと思って9時ちょい過ぎに図書館に到着したら10時開館だった。出直すのはイヤだが、かといって開館まで1時間近く待つのもイヤ。こりゃ参ったなと思いつつも開館まで待つことにする。
 だが、その浪費するはずだった1時間のうちに、アメリカの無人火星探査機マーズ・ポーラー・ランダーが火星の音を拾うためにマイクを積んで打ち上げられたことを知ったり、図書館のすぐそばに「どんぐり山」という名の山があるらしいことがわかったのでそこへ行ってみたり、朝のウンコに打ち込むことができたりもした。音も山もウンコも、すべて私の主要関心事。やはり早起きは三文の徳だし、馬場は十六文のキックだった。

1999年3月1日(月)

 午後、ボロチャリに乗って江古田富士へ。西武池袋線江古田駅北口のすぐ近くに浅間神社があり、江古田富士はその境内の奥に聳える。だから駅からムチャクチャ近い。交通至便の駅前富士。
 この富士塚、かなりデカイ。でもって、「富士塚ってのはどいつもこいつもカッコええが、この落合富士もまたえらくカッコよく聳えている」と2月3日の日記に書いたが、この江古田富士もまたえらくカッコよく聳えている。
 この富士塚は拝殿の真後ろにある。つまり、富士塚が本殿で御神体。拝殿の前に立つと、奥の格子窓を通して御神体である富士塚の一部が見えるようになってるんだが、これがいい。実にいい。
 帰りに、堀ノ内の妙法寺に寄ってみる。
 私が幼稚園児だった頃、近くのお寺さんの縁日に行くのがとても楽しかったという記憶があるんだが、その寺の名が自分ではわからなかった。最近、親に訊いてそれが荒玉水道道路の終点近くにある堀ノ内の妙法寺だと判明した。
 なぜ、自分では寺の名がわからなかったのかというと、幼い私にとって、寺といえばその寺しかなかったから、他の寺と区別する呼称など覚える必要がなかったから……じゃないな。幼い私は縁日の露店にしか興味がなくて、寺自体には目が向かなかった。そして縁日といえばその縁日しかなかったから、幼い私にとって、あそこは「妙法寺」ではなくて「縁日」という場所だったのだ。
 さて、懐かしの妙法寺の山門の前に立ってみる……おお! 境内に入ってみる……ああ! 厄除けのお祖師様の祖師堂が聳えている……うう! 懐かしくて涙が出たかったが……ダメだ、出ねえや。出るわけがない。だって、全然見覚えがない。なーんもまーるで覚えとらん。何を見ても記憶が蘇ってこない。まあ、縁日の寺と普段の寺とでは全然風景が違うから、しょうがないか。
 しかし、立派なお寺だ。子どもの頃いた場所に大人になってから行くと、何もかもが小さく狭く感じられるものだがしかし、妙法寺はデカくて広い。全然小さく狭く感じない。ホントになーんも覚えてないからだ。
 寺を後にしてチャリをテキトーに転がしてたら、私が通っていた左内坂幼稚園の前(というか裏)にすぐに出た。ここには日参していたし、卒園後も来たことがあると思うから、さすがに覚えている。だが、大人になってからは来たことがなかったので、ちゃんと幼稚園が小さく狭く感じられる。とても狭い。
 でも、今住んでいるこの世田谷城山山麓のさる家も、大人になってから訪れた幼稚園のように小さく狭く感じられるのはなぜだろう? ここには2年ちょっと前に越してきて、その後、私の身長は伸びていないと思うんだが、なぜだ? なぜだかわかるけど、わかんない。

1999年2月27日(土)

 夕方、まだ明るい時間に、世田谷の街中の舗装道路上で、穏やかに立ちションしているじいさんを目撃。
 昔に比べ、立ちションに遭遇する回数は確実に減ったが、今でも立ちションを目撃するのはムチャクチャ珍しいことじゃないし、自分自身の立ちションを目撃することも珍しくない。だから腰を抜かすほどの驚きではないが、でも今日の立ちションはかなり違和感のある光景。だって、何もこんなところで放出しなくても、もちっとやりやすい場所が近くにあるでしょうに。っていうかじいさん、近くに公衆便所があるですだよ。
 都会の人口密度はスゲーから、みんなが自由気ままに立ちションしまくったら大変だ。でも私は、都会の立ちションを否定するつもりはない。逆に、推進したい。ある程度の立ちションは積極的に許容した方がいい。立ちションもロクにできないような街は住みづらい。あちこちに自由放尿区間をつくって、立ちションの似合う街づくり。立ちションの似合う街、東京。

1999年2月23日(火)

 今日って、富士山の日なの? じゃあ0月83日はおばさんの日。
 でも、富士山の日よりも富士見の日にした方が美しいと思うんだが、このように覚えやすい日の夕方に姉が女の子を産み出した。名まえはまだない。フジミという名まえにすれば、誕生日を祝ってもらいやすい人生を送ることができるし、死なない人生を送ることもできるかもしれない。どうだろうこの名まえ。ダメだな。
 夜、テレビでジョブズ見物。筑紫哲也と木村太郎がインタビューしていたが、木村太郎の勝ち。

1999年2月20日(土)

 それにしても夜の西友ママチャリは重い。今夜こやつに「ババチャリ」という名を与えた。気に入ってくれるといいのだが。

1999年2月18日(木)

 大井とともに電車で幕張へ行ってジョブズ見物をするはずだったが、どういうわけか自転車で喜多見の次大夫堀公園へ行ってしまう。あのスティーブ・ジョブズが小泉次大夫に敗れた日。
 せせらぎ(復元された次大夫堀)の下流の方から次大夫堀公園に入り、遡上していくと、最後の最後で川が沢になって、ああ沢になったと思ったらすぐに水源に着き、そこから少し登るとあっと言う間に山頂に到達する(一応、このピークに「次大夫沢の頭」という名まえを付けとこう)。その急激に展開するクライマックスがいい感じだ。民家園も神様がいっぱいいていい感じ。田んぼに水が張られたころにまた来たい。また来よう。
 次大夫堀公園からは荒玉水道道路の起点である砧浄水場前が近いのでちょっと行ってみる。そこからしばらく水管橋などを見物しつつ荒玉水道道路を走っていると、砧の山野小の校庭に立派な人造山がおわっしゃったので登頂。「山野小山(やまのこやま)」と命名しておく。環八沿いのロイヤルホストでベトナム料理を食らってから帰る。
 昨日また羽根木公園に梅を見に行ったんだが、人が少ない時に見たいと思ったので、晩酌を済ませた後、大井とともに歩いてまたもや羽根木公園へ。さすがに夜はあまり人がいない。しめしめ。梅の花の匂いを犬のように思う存分嗅ぎまくり、嗅ぎ分ける。ええ匂い。

1999年2月16日(火)

 午後、ボロチャリで三茶に買い物に行った後、返す刀で船橋五丁目の世田谷七福神堂へ。途中、経堂五丁目の長島大榎公園に寄る。大きい榎がある公の園だから大榎公園なんだろう。実際、すっげえデカイ樹がある。きっとこれが大榎だ。
 大榎様は既にお亡くなりになっているようだが、しかし、枯れているにしては妙にしっかりした感じの佇まい。近寄ってみると……ああなるほど、朽ち果てないようにするため、木肌にセメントを塗って固めてあるのだ。人造化石、即席化石だ。いや、大榎様の生身の石像、と言ったほうがいいか。
 経堂四丁目の天祖神社にも寄る。鳥居の前でメモを取ろうとしてニュートンを起動したら、おお、日食だー、金環食だー! 日食の日にはニュートンのスタートアップ画面が日食アニメになることは知っていた(金環食の日には、ちゃんと金環の絵が現れる。皆既日食や部分日食とは絵が違う)が、今日が日食だとは知らなかったので驚いた。そうか、今日は地球上のどこかとニュートン上で金環食が見られる日か。こういう予期せぬ電子日食見物ができるだけで、ニュートンを買ってよかったと思える。
 ところで、マックの三箇日スタートアップ画面や誕生日スタートアップ画面は、同じ日に何度起動してもその都度見ることができるし、再起動するだけでもまた見られる。ところが、普通の使いかたをしていれば、ニュートン上の電子日食が見られるのは、日食の日に初めてニュートンのスイッチを入れた時だけで、同じ日にまたスイッチを入れても日食スタートアップ画面は出てこない。
 予期せぬスタートアップ画面が出てきて、それがすぐに消えてしまうから、プレイバックしたいと思う。ところが一度しか見られない。そこがマックとは違う。でもその方が自然だし、ありがたみがある。同じ日に何度でも年始の挨拶を繰り返したり、同じ日に何度でもしつこく誕生日を祝うマックより、一回こっきりのあっさりしたニュートンの方がよろしい。

1999年2月12日(金)

 『ケイゾク』とかっていう金ドラを初めて見て、モダンホーミーの新作を思い付いた。敬礼しながらホーミーする「敬礼ホーミー」。一人が同時に二つの声を出しつつ、さらに一つの敬礼をもしてしまうという大変な離れ業だ。

1999年2月8日(月)

 ボロチャリで多摩川浅間神社と御嶽神社へ。そしてそのチャリでコンフォルト編集部に行く途中、八雲で小振りながらも立派な人造山を発見するが、命名はひとまず怠ってやる。だがこのままで済むと思うなよ。

1999年2月7日(日)

 午後、大井とともに徒歩で梅まつり中の羽根木公園へ。自転車で外出すると、ちょっとの力でスーッと体を移動できるから身軽な気分だが、徒歩で外出すると、自転車という大きな荷物のことを気にせずに動き回ることができるので、身軽な気分。どっちも身軽でどっちも身重。あちらもいいしこちらもいい。あちらを立てればこちらが立たず。だが、折り畳み式自転車ならどっちの「身軽」も同時に得ることができる……といきたいところだが、今のサイズの折り畳み式自転車では、大きな荷物であることに変わりはない。もっとものすごく信じられないほど画期的に小さくならないと。
 両「身軽」を同時に得るにはどうしたらいいのか。なんとかならないのか。とりあえずなんともならないが、自転車を乗り捨てるのが当たり前の社会になればいい、というのが私の持論だ。ビニール傘とママチャリは天下の回り物。放置自転車も放置傘も大いに結構。使い終わったらその場に放置し、その場で使いたくなった人が放置自転車に勝手に乗ってどこかへ行く。そしてまた放置。そんな社会になったらすげえいいと思うんだがしかし、ビニール傘は安く、ママチャリは高い。だから傘が天下の回り物になるのは比較的簡単だし、現に多少はそうなってたりもするものの、自転車が天下の回り物になるのは残念ながら難しい。
 で、梅だが、咲いている梅もあったがまだこれから。梅よりも人の方が満開状態だった。

1999年2月6日(土)

 太腿なら今日もパンパンだ。
 大井とともに自転車で、千駄ヶ谷の鳩森八幡神社境内にある千駄ヶ谷富士へ。途中、淡島通りを通って北沢川緑道を横切る時、緑道が随分ええ感じになってせせらいでることに気づき、チャリを止めて二枚貝やドジョウを見物。また、大井が昔住んでいた駒場のアパートの近くを通り、少し懐かしい気持ちになる。
 千駄ヶ谷富士にはかつて登ったことがあるが、今日はさらに何度も登頂する。近くのそば屋でそばを食した後、大井は東京体育館でヒンギス見物。ドジョウもヒンギスも見ることができて、大井にとってよい一日だったことだろう。私はボロチャリで中井、葛ヶ谷(西落合)の両御霊神社へ。葛ヶ谷御霊神社からは、元野方給水所の水の塔公園が目クソと鼻クソの先なので、ちょっと行ってみる。公園にはあまり色気がないが、配水塔は思っていたよりぶっとくて立派。
 新井薬師にも寄り、荒玉水道道路などを通って帰る。私は小学校に上がる前まで杉並区大宮に住んでいたが、荒玉水道道路はその家のすぐ近くを通っていて、荒玉水道道路が善福寺川を渡る辺りは通園路だった。今日はその善福寺川に架かる済美橋を渡り、少し懐かしい気持ちになる。

1999年2月4日(木)

 ボロチャリで図書館へ。恩田政行著『すぎなみの水紋様−今昔抄』(青山第一出版)という、荒玉水道のことが書いてある本を見つける。やはり、地上の荒玉水道道路(車や人の道)は高円寺陸橋の辺りで終わっているが、地下の荒玉水道(水の道)はその先も真っ直ぐ続いていて、野方給水所(今は水の塔公園)を通り、大谷口給水所(今は給水所ではないが配水塔は残っている)に達していたらしい。だが、残念ながら荒川までは届かない。くそう。
 それに、この本には「荒玉水道命名の由来は定かでない」と書いてある(荒玉水道は昭和にできたものだってのに、もうわからなくなっちゃったのか)。うーむ、荒玉の「荒」は荒川の「荒」じゃないのか。だが「負けるもんか」と書いたからには引き下がるわけにはいかない。
 荒玉水道は大谷口給水所で終わっているといっても、そこから周囲にお住まいの皆さんに水を給するわけだから、まだ水の道の続きはある。大谷口給水所からは、北豊島郡の岩淵にも給水していたようだ。その岩淵ってのは現在の北区岩淵町の辺りだろう。岩淵町は荒川沿いにある。ってことは、荒玉水道は、荒川と多摩川(玉川)を繋いでいたわけではないものの、多摩川のすぐ近くから荒川のすぐ近くに達していた水道ではあるのだ。というわけで、やっぱり荒玉の「荒」は荒川の「荒」かもしれんぞ。
 あとはまあ、荒玉水道は新井薬師のある新井を通るから、アラタマの「アラ」はアライの「アラ」って可能性もあるが、ちょっとねえ。
 図書館を出た後、桜新町のスーパーに行き、永谷園のトースト用ふりかけ、トッピーのツナを久々に発見。迷わず購入する。賞味期限は今年の11月。ってことは、まだ造っていたのだ。とっくに製造終了になってると思ってたんだが。よかったよかった。

1999年2月3日(水)

 朝、ボロチャリを駆って、上落合の月見岡八幡神社境内にある落合富士へ。富士塚ってのはどいつもこいつもカッコええが、この落合富士もまたえらくカッコよく聳えている。太腿の疲れも取れるってもんだ。
 続いて高松の長崎富士へ行くが、あれま、初めて行くところだと思ってたのに、ここにはそう遠くない過去に来たことがあるぞ。まあいいや、何度でも来てやる。覚えているがいい。
 長崎富士のすぐ後ろには「ふじみ荘」というアパートがある。たしかにこのアパートからは、毎日富士山がメチャクチャよく見える。
 富士塚のハシゴを終え、西新宿へ向かう。途中、東中野で、ラスタカラーで彩られた人造山を発見。「ラスタ山」と命名する。
 西新宿到着後、まずはヨドバシカメラで新パワーマックG3、新アップルスタジオディスプレイ(の17インチCRTモデル)、そして5色の新iMacの実物を生まれて初めて見る。新じーさんと新CRTの実物拝顔の感想は「う、うひゃー…………」であった。が、内蔵CD-ROMドライブは気に入った。青蓋がパカッと開いた後、トレーがベーッと出てくるところにサンダーバード感があって楽しい。ので、何度もイジェクトボタンを押して弄ぶ。
 5色の新iMacの実物拝顔の感想は「ほ、欲しい」であった。特にライムが欲しい。それと、特にタンジェリンが欲しい。あと特にグレープが欲しい。あと特にストロベリーが欲しい。ついでにブルーベリーも食べたい。が、我慢してコンシューマーポータブルを待つ。
 ヨドバシでコマイ買い物を済ませた後、パワーユー、ソフマップにも行く。エディーバウアーにも寄ろうかと思ったがやめる。帰りに羽根木公園を通る。前にこの公園に来た時、丸太を組んで造った山を見つけたんだが、「丸太山」という山名を与えることにする。

1999年2月1日(月)

 西友で買ったママチャリ(名まえはまだない)の前照灯は、前輪にダイナモのローラーを当て、ジージーとこすり回して点灯させるタイプ。これは、走るついでに発電もしちゃうという一石二鳥のたいそう素晴らしいしくみではある。
 だが、実際にそうやってジージーやりながらママチャリに乗っていると、「走るついでに発電もする」というよりもむしろ「発電するついでに走りもする」という感じで、ライトは煌々と輝くが自転車は大して進んでくれない。だから夜にこの名無しママチャリに乗ると、チャリン家というよりも発電家だ。皆さんの明るい暮らしのために来る日も来る日も夜の東京を照らし続ける流しの発電家、中野純。そういうわけで私の太腿は今日もパンパンなのだ。

1999年1月31日(日)

 くそう、タバコを喫う夢をまた見た。
 去年の10月9日にニューヨーク西66丁目で喫ったキャメルライトを最後に、タバコを1本も喫っていない。その代わり、夢の中でタバコを喫うようになってしまった。タバコをやめるまでは、夢の中でタバコを喫うことなどなかったと思う。
 最近、夢の中での喫煙はかなり減ってきている。だがそれでもまだこうしてタバコを喫う夢を見てしまうところに未練が感じられて、ちょっと気に食わない。でもまあいいか。
 さて、愛煙家をやめてすっかり晩酌家になった私だが、どんどん酒量が増えていて困ったもんなので、今日は晩酌家もやめることにした。でも晩酌家は男色家みたいでいい感じなので、明日にでも復活するかもしれない。
 チャリン家としての活動(つまり、自転車に乗ること)は今日も怠りなかった。毎日太腿がパンパンだ。急速にチャリン家体型になってきているのがよくわかる。が、嬉しくない。

1999年1月30日(土)

 自転車で行くシモキタは近い。夜、自転車でシモキタの多田家へ。多田夫妻はボンダイブルーの透かした野郎、iMac128,000円也を購入したばかり。
 最初にiMacを見た時に思ったんだが、iMacは遠近法を間違えている。斜め上あたりからiMacを見ると、へたくそな絵のような、ミョーな形をしているのだ。悪口を書いてるんではない。あの、遠近法を間違えた感じのシェイプが、iMacとその周辺の空間を軽く歪ませているようで、そこだけが異次元のような、そこだけ時空が違う感じがちょっとして、大変よろしいと思うのだ。

1999年1月29日(金)

 夜、大井とともに自転車で高円寺へ。オーインディアに少女まんがを搬入する。途中、荒玉水道道路という、細いがひたすら真っ直ぐな道を通る。この「荒玉」ってのは何か。
 地図を見ると荒玉水道道路の終点は多摩川に面した砧浄水場だから、「玉」は多摩川(玉川)のことだろう。それなら「荒」はきっと荒川で、荒玉水道とは荒川と多摩川を繋ぐ水の道に違いない、と考えるのが妥当。ところがどうもこの荒玉水道道路は、高円寺陸橋の辺りで途絶えているように見える。荒川は遥か彼方だ。「荒」は荒川の「荒」ではないのか。
 もしかしたら、地上の荒玉水道道路(車や人の道)は高円寺陸橋の辺りで途絶えているものの、地下の荒玉水道(水の道)はその先もずっと真っ直ぐ続いていて、新井薬師や哲学堂公園、千川駅、板橋本町駅の辺りを通って赤羽付近で荒川に出るのかもしれない。いや、そうじゃなくて、荒玉水道は実は井ノ頭通りと当たる辺りで急に気が変わって曲がり、和泉水圧調整所に行く。そこから甲州街道の北側を通って西新宿に向かう(実際、「水道道路」という名の道が甲州街道の北側にある)。西新宿に向かうということは、かつて淀橋浄水場があったところに向かうということだ。水道は淀橋浄水場で一息ついた後、気を引き締めて遥かなる荒川へとさらに延びていくのだった……というのはどうだ。違うな。
 なんにせよ、「荒玉」の「荒」は荒川の「荒」という点だけは死守したい。くそう、負けるもんか。
 ところで、和泉水圧調整所のそばに「水道横丁」というバス停がある。「水道横丁」かー。

1999年1月26日(火)

 夜、豊永郁代さん来さる。大井がお子様風カレーを作り、私はフランス的和風アメリカンサラダを作り、酒を盛ってもてなす。
 かつて、豊永さんには「毎晩、小林秀雄の講演テープを聴いてから眠る」という風習があった。同じ話を毎晩聴いて寝るのだ。なんだそりゃ。それのどこがいいのかと訊くと、じいさんの声がいいのだという。小林のじいさんの話し声を聴くと、いい感じで心がクールダウンされて眠りに入っていけたのだという。じいさんの声かー。

1999年1月20日(水)

 百合丘の中野家でマックの治療、インストールサービス、晩酌等をした後、百合丘駅から小田急線新宿行き終電に乗り、豪徳寺駅で降りて帰るはずだったが、調子や電車に乗ってるうちに行き過ぎ、梅ヶ丘駅に着いてしまう。寝過ごしたのならまだしも、パッチリ目が開いた状態でのこの失態。調子に乗って飛ばしてるうちに行き過ぎてしまうブーム、本格化の兆し。

1999年1月18日(月)

 豪徳寺の自転車屋でブリヂストンのワイヤー錠を買う。テキトーに突っ込みゃ錠が開くリバーシブルキーってのがよござんす。
 その後、昨日見つけた烏山川緑道沿いのスーパーに行こうとするが、調子に乗ってボロチャリを飛ばしてるうちにすっかり通り過ぎてしまう。調子に乗って飛ばしてるうちに行き過ぎてしまうブームの到来だ。今日もチャリ転がしに精を出すが、今日のケツは大丈夫。うーむ、ケツ痛ブームはもはやこれまでか。
 自分のマックには「関孝和」という立派な名まえがあるのに、自分の自転車に名まえがないのは不公平。そこで今日はボロチャリを改めて「ボロチャリ」と命名してみた。

1999年1月17日(日)

 今日も2人ツーリング。午後、烏山川緑道を遡上して八幡山へ。途中、希望ヶ丘公園で「芝生山」という山を発見し、果敢に登頂する。帰りに上町の酒屋で日本酒を買い、今日も晩酌。今さるすべりは晩酌ブームなのだ。そして今日もケツがたいそう痛い。ので、ケツ痛も大ブーム。

1999年1月16日(土)

 今日も大井と2人でボロ市に行き、そして今日もいきなりボロチャリを買いそうになるが、そんなことをしたらボロ市に行くたびに自転車を買うような人間になってしまうので、ボロチャリは買わず、買い食い。ところがその後2人はすぐさま下高井戸の西友に行き、新品ママチャリを購入したのだった。このペースを守れば年間365台購入も夢ではない。
 ママチャリ購入後、そのまま2人ツーリングに突入。甲州街道を渡り、永福通りから井ノ頭通りに出て、久我山へ向かう。久我山からの帰りは神田川沿いのチャリ歩道をぶっ飛ばすことにしたが、調子に乗って飛ばしてるうちに行き過ぎ、秋葉原へ行ってしまいそうになる。危ねえ危ねえ。
 豪徳寺に戻ってそば屋に寄った後、さらにツーリングを続けようとするが、久しぶりの長チャリでケツがたいそう痛いため、おとなしく帰ることにする。

1999年1月15日(金)

 近所でやっているボロ市に大井と2人で行き、いきなり8000円のボロチャリ(中古自転車)を買う。いったん家に戻り、自転車を置いて再びボロ市へ。買い食いに精を出す。骨董品には欲しい物がたっくさんあるが、高くて手が出ない。高くて当然だと思うが、でも高い。
 先月、初めてボロ市に行った時にも思ったことだが、毎日がボロ市だったらすごく活気のあるいい街なのに。毎日はキツイ、休みがほしいというのであれば、火曜定休ということで手を打つ。その代わり月曜は残業。
 ボロ市を後にして、城山通りの天丼屋で海老5本入り天丼を食らい、帰宅。しかし、買ったばかりの自転車を乗り回したくてしょうがなかったので、また家を出て下高井戸へひとりツーリング。

1999年1月8日(金)

 さる家、駒沢公園、早稲田大学理工学部でテレビ番組の収録。駒沢公園では、マルタ君と大井と私の3名だけのプチ・ホーミー練習会を行う。とりあえず3人で一鳴きしてふと振り返ると、遠くにいたヒトの子たちがどわーっと駆け寄ってきていた。しまった、異種より反応がいい。他言は無用だ。

1999年1月4日(月)

 唐突に潮が満ち、山の上の方まで海が来た時、海と一緒にイルカの小さな群れもやってきた。山頂近辺にいた人たちは「おお、海だイルカだ」と海辺に駆け下りる。私も海辺に下りて腰を落とし、海に向かってホーミーしてみた。山は白く階段状。海は綺麗な乳青色。ホーミーを始めるとすぐに、目の前の海中から1匹のイルカが飛び出してきて、私と戯れる。私はホーミーを続ける。イルカはラジオペンチみたいに細長い口を私の口の中に入れてくる。イルカの長口のせいでホーミーの音が変になる。その長口と変なホーミーが、スゲー気持ちいい。
 という夢を見た。こんな夢を見たのは、昨晩『ディープインパクト』を観て寝たからだが、『ディープインパクト』と違って、ずいぶんノンキな感じになってしまいましたね。
 初夢がなんだったか、まったく覚えていないが、この山イルカの夢がとっても幸福な夢だったので、これが初夢だったということにする。他言は無用だ。



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