さるすべり中野「デジ専」

 「デジ専」は、EYE-NETの「ネットワークバカマガジン正直毎日」(コイデヒロカズさん責任編集)で1995年7月からいい加減に連載され、いい加減にやめてしまったコラムだ。読者はものすごーく少なかったと思うので、もうちょっとだけ多くの人の眼に触れるようにしようと思う。ただし内容はくだらない。
 これだけじゃあんまりかもしれないので、もう一本、やはり発表済みのコラムで、やはり読者がものすごーく少ないものを載せることにした。「エキスパンドブック版 Paperぱらねも」に掲載された(はずの)「デジコミと異種コミ」というコラムだ。
 「デジ専」も「デジコミと異種コミ」も、随分昔に書いたもので、既に歴史的文献になってしまっている(「スピードダブラーの問題」には、消滅した店舗がいくつも登場する)。せっかく苔むした文章の、苔を剥がしてしまうのはもったいないので、加筆修正は一切していない。

 このページは自己完結した一本の巻物だ。ホームページしかないホームページってのを、一度作っておきたかった。ただそれだけだ。
 そのうち、もう少しマシなホームページを作るつもり。当然、ホーミページも作ることになるだろう。それまでしばし、お待ちを。



デジ専予告編
■傘の問題■
1995年6月執筆

 「デジ専」とは、「デブ専」のようなものだが、せっかく梅雨なので、傘についての話から始めよう。

 私は、雨が嫌いだ。
 いや、違うな。雨は晴れと同じように好きだ。
 雨が嫌いなんじゃなくて、雨の日に出かけるのが嫌いなのだ。出かけずに家でじっとしてるのなら問題はない。湿気なんて全然不快じゃないどころか、かえって好きなくらいだ。
 じゃあなぜ、雨は構わんのに、雨の日に出かけるのは嫌いなのか。原因は傘だ。傘をささなきゃいかんと思うと、それだけで憂鬱になるのだ。傘をさすと否応なく片手が塞がってしまう。それがたまらなく鬱陶しい。たまらなく不自由だ。
 と、我ながらつまらん出だしである。読むのをやめてもいいぞ。
 別に傘をささなくても、手提げ式のバッグを持って出かければ、やはり片手が塞がる。その不自由さがイヤだから、リュックを背負って出かける。リュック式のバッグがストリートファッションの主流のスタイルになった訳は、両手をフリーにして歩きたいってことに尽きるだろう。
 だから、断言しよう。世界は傘を嫌っていると。雨の日に出かけるのが嫌いだと。
 もちろん、傘をさす代わりにフード付のレインコートを着れば両手がフリーになるが、バッグが濡れちゃったり、部屋に入ると脱がなきゃいかんかったり、雨が前から吹きつけると顔が濡れちゃったりと、何かと不便。リュック様の快適さとは訳が違う。フードなんてのは防風、防寒のためにあるんであって、雨を防ぐものじゃあない。
 そういうわけで、世界は傘を嫌ってる。ついでにレインコートも雨合羽も嫌ってるのだ。
 梅雨にはレインファッションを楽しむような特集がファッション誌に載るが、冗談じゃないぜよ。レインファッションなんて楽しくもなんともない。誰もレインウェアなんぞ、身に纏いたくないのだ。そんなもんをちょっと気の利いたデザインにしたりカラフルにしたりするくらいで、だまされると思ったら大間違いだ。
 にしてもだ。傘ってのは、あいつはまるでシーラカンスだ。基本的な構造は、大昔からちっとも進化してないじゃんか。番傘、唐傘と今の傘とは、一体どこが違うというのだ。万人の日常生活にとって必須の道具だというのに、これほど代わり映えのしない、進歩のない道具が他にあるだろうか。
 もちろん、折り畳み傘とか、あと、なんだっけ、ワンタッチ傘っていうんだっけ、ボタンを押せばワンタッチで開くやつ、あれとか、そういう進歩はあった。でも、折り畳み傘は、そもそも折り畳んだり開いたりするのがすごく面倒だ。コンパクトで持ち歩きやすいものほどめんどくさい。それに、一旦さしちゃえば普通の傘と同じの片手殺し状態で、便利でもなんでもない。それどころか、作りがどうしてもしっかりしないから、ちょっと風が強いともうへなちょここぞうになって、不便この上ない。ワンタッチのやつにしても、たかがそこだけ自動になったからといって、たいしてありがたいもんじゃない。
 だから、折り畳みやワンタッチなんかを進歩と呼ぶのはおこがましい。そうそう、ストラップがついてて、肩に掛けて持ち運べる傘ってのも一時ちょっと流行ったっけ。でもあれも、実際使ってみると何かと不便だし、さしてしまえば結局同じ、片手殺し。結果、今の傘の主流は、折り畳みでもワンタッチでもなんでもない、ただのビニール傘か、木のどっしりと重い高級傘だ。その構造は、大昔とほとんど変わらん。
 なぜ傘は進化しないのか。雨具ってのは、ほんとにこれ以上、どうにもならんものなのか。かつて、よく知らんが30年前くらいなのかな、傘の大革命が起きた時があった。アーケードってやつだ。あやつは街自体が傘をさすというコペルニクス的転回を雨業界にもたらしたのであった。全国各地の商店街がこぞって大金をはたいてアーケードをおっかぶせ「これで雨の日も傘をささずにショッピングができます。なんて素晴らしいこってしょう」とあいなった。そういう、アーケードブームみたいなもんがあった。
 時代は、傘の進化を諦め、傘そのものが日常生活の必需品ではなくなるべく、動き出したのだった。そうだ、それが正しいのだ。傘はイヤじゃ。
 ところが、こやつは80年代くらいには廃れきってしまい、折角取り付けたアーケードをわざわざまた撤去しちゃう商店街が続出(ってほどかどうかよー知らんが)した。そしてまた、雨の日は傘をさしてショッピングするようになったのだった。ああ。なぜこんな素晴らしいものが廃れちまったのか。
 理由は簡単。この細長く巨大な傘は、一旦さしたら閉じることができないからだ。雨の日はいいが、晴れてもさしっぱなしだから、通りが薄暗くて閉塞的でしみったれた感じになる。それが完全な屋内ならいいが、半屋外のくせに晴れた日に薄暗くて閉塞的なのはたまらない。
 そこで俄然台頭してくるのが、東京ドームのような全天候型の可動式ドームだ。あれはまさに、降ったら傘をさし、晴れたら傘を閉じるというのと同じことをやってるわけで、これならなんの問題もない。めでたしめでたし。とはいえ、街全体にドームをおっかぶせるのは、アーケードとは比較にならんほど大変なことだ。結局、巨人の試合が終わったら、傘をさして帰らなきゃいかんのだ。
 こうした話の流れからもわかるように、傘は携帯品としての進化を諦め、建築物としての進化に力点を移している。携帯品としての傘はどうしても片手を殺すが、建築物は片手を殺さない。
 そうして考えてくと、なんのこたあない、一番素晴らしい傘とは家なのだという結論に達する。東京ドームから傘をさして家に帰ったとうちゃんは、家に帰っちまえば、もうずっと両手がフリーだ。傘の中で傘をさす必要はないんだから。
 家の基本は傘だ。ビーチパラソルでもイメージするといい。もうちょい家っぽくするとテントか。ゲル(パオ)なんてまさに家と傘の狭間にある形だ。あずまやもそうだな。
 家が家として成り立つためには、まず屋根が必要だ。それから壁。そして床。壁や床がない家はあってもいいが、屋根がない家は家じゃない。屋根がない傘が傘じゃないように。
 例えば、あずまやには壁がないが、家と言って差し支えないだろう。土間だけの家は床がないけど家だ。ところが、いくら壁と床があっても屋根がなければそれは家ではない。檻だ。
 だから、家のキモは屋根なのだ。家のキモは傘なのだ。
 そしてこの傘は、持つ必要がない。両手がフリーなのだ。朝起きて雨が降ってたら、一日中出掛けないで家にいる。そうすれば一日中両手がフリーだ。バンザイ! そう、家にいれば、バンザイだってちゃんとできるが、傘をさしてたらちゃんとできない。
 だがしかし、家という傘には唯一の、そして致命的な欠点がある。この傘は持ち歩けないということだ。持ち歩けない上に狭い。
 家ではショッピングができない。散歩もできない。セールスマンが家の中で営業して回ってもしょうがない。人間の日常的な一日の行動圏を家という備え付けの傘の中でカバーするのは辛い。規模の差こそあれ、同じような問題が、全天候型ドームにもある。やはり、傘は備え付けじゃあ意味がないのだ。可搬性がある家こそが傘なのだ。
 そうすると車だ。車なら、車そのものが傘であって、どこへでも行ける。便利だ、便利すぎる。してみると、車こそ傘の進化形だってことになる。携帯品と建築物の両者をいいとこ取りした車こそ、傘の王者ってか。でも、車はクサイから嫌いだ。それに、車に乗ってどっかに行く場合、目的の建物の中に駐車場があれば問題ないが、往々にして車から降りて外を歩かなきゃいかんのが現実なわけで、その時やっぱり傘が必要になる。イヤじゃイヤじゃ、傘を持つのはイヤじゃ。
 結局、雨の日は出歩かないのが一番ってことだ。遠足や運動会だけでなく、外に出なきゃいけないことは、すべて雨天中止ってことにしたらどうか。雨の日は会社も休みにする。自宅で働きゃいいでしょう。雨の日は電車も休みだ。道路も全面封鎖だ。
 実際、マルチメディアっつうもんが現実化すると、雨の日はいよいよ家に篭もってればいいことになる。家という備え付けの傘の中に入ったまま、回線を通してどこへでも行くことができるからだ。
 こういう話になると、よく知りもせずに「ケッ」っとそっぽを向くヤツが多いが、マルチメディアをバカにしちゃいかん。確かに情報スーパーハイウェイだとかビデオオンデマンドなんかはまだまだ「ケッ」の領域だが、電話やファクスやパソコン通信やなんかは、どんどん進化して、つまり電話回線を利用してやれることはどんどん多岐に渡ってきてて、すでに我々の通信環境はかなりマルチメディアなのだ。もしあなたがそう思わないとしたら、あなたがきちんと電話回線を利用してないだけの話だ。
 そういえば最近の私は、雨の日は外出しないで家に篭もってることが多くなっている。現にそれで済む世の中になりつつあるのだ。さっき「一番素晴らしい傘とは家なのだという結論に達する」とちょっと先走って言ったが、ここへきて、その発言はもっともらしいものになった。
 マルチメディアによって、家という傘が、バーチャルな可搬性を獲得する。家は備え付けの傘であると同時に、持ち歩ける傘になる。しかも、傘をさしてるのに両手はフリーだ。何をして、どこへ行っても、雨に濡れず、両手はフリー。
 なんて素晴らしいことだ。マルチメディアは傘を超える。マルチメディアのおかげで雨の日も両手がフリー。そうか、マルチメディアとは、傘という片手殺しの道具を克服するためのものだったのか。やったぜマルチメディア。マルチメディア万歳!
 と、ここまで単純で無邪気な結論になるとは予想しなかったが、こうなってしまったのだからしょうがあるまい。平成不況の憂鬱からなんとか抜け出そうと喘いでたオヤジたちがこのところ、なりふり構わずマルチメディア・バブルに縋り付いてるが、私とて同じ心境だ。雨の日に傘をさす憂鬱からなんとか抜け出そうと喘いでたら、そこにマルチメディアの時代がやってきたのだ。他に方法がないんだから、これに縋るしかあるまい。進化しない傘が悪いのだ。
 こうなったら何度でも言ってやる。マルチメディア万歳。傘よ死ね。マルチメディア万歳。傘よ死ね。マルチメディア万歳。傘よ死ね。マルチメディア万歳。傘よ死ね。マルチメディア万歳。傘よ死ね。マルチメディア万歳。傘よ死ね。マルチメディア万歳。傘よ死ね。マルチメディア万歳。傘よ死ね。マルチメディア万歳。傘よ死ね。マルチメディア万歳。傘よ死ね。(おわり)

 これは、去年の秋に書いた原稿だ。ある雑誌の創刊号に載るはずだったんだが、結局その雑誌は創刊されなかったので、こっちに載せちゃうことにした。「デジ専」の主旨は、だいたいこの原稿のようなもんなので、新連載の主旨説明も兼ねることができて、一石二鳥なのだった。要するに「無反省にデジタル文化を賛美する」というのが「デジ専」の主旨だ。私はマックユーザーなので、マックを賛美することも多いだろう。どうだどうだ。つまんなそうだろう。でも、ちゃんと面白くしてみせよう。
 なわけで、よろしくおつきあいくだされ。


デジ専第1回
■オフ会の問題■
1995年9月執筆

 なんだかどうも、最近、私の回りでは、日々、そこら中でオフ会が行われているようだ。オンラインで仲間ができたらオフ会をやる。そして、一度ならず何度も頻繁にやる。そうやって親交を深める。そういうのが当然のルールのようにすらなってる気がする。ま、それが人情ってもんなのかもしれないが、私は、オンラインで楽しくやってるなら、その中だけで完結してしまっていいと思うんだが。オンラインでの知り合いと、一生顔を合わすことなく死ぬのって、なんか「いいなあ」と思うんだがなあ。結局オフラインで会いたくなるもんなんだろうか。やっぱり「生身」が一番なんだろうか。私は「生身」が一番だとは思わないけどな。
 もちろん、「生身」は「生身」で確かに具合がいいとは思う。でもオンラインもよろしい。どっちも捨てがたいから、ここでひとつ、提案しよう。
 どうせならオンオフご一緒にってのはどうか。どういうことかってえと、こういうことだ。
 ごく普通のオフ会と同じように、オンラインの仲間たちが、ある場所に集まる。だが、口をきいてはいけない。一言もしゃべってはいけない。「こんにちは」もダメ。名乗るのなんてもってのほか。ただ単にオフラインで会うだけのオフ会だ。
 じゃ、なんにもしないでぼーっと突っ立ってるのかというと、それはそれで面白いが、そうではない。オフ会の会場には、参加者と同数のパソコンが並んでいて、それぞれホストコンピュータとアクセスできるようになっている。集まった参加者は好きな場所に座って、モニタと向かい合う。そしてやおらコンピュータをたちあげ、ネットにアクセスし、会場内の参加者たちとチャットを始めるのだ。口は閉ざしたまま、10本の指だけをちゃかちゃかと動かして。
 オフラインで会ってるのに、オンラインでしゃべる。だから、誰が誰だかわからない。でも、キーボードを叩く音に耳を傾けるうちに、誰が誰だかある程度見当がついてくる。そうして、最後には確信すらするのだが、しかし、確認はしない。
 会の終わりも無言だ。「今日は楽しかったです」「じゃ、また明日、オンラインで。あ、今夜かな」といった最後の挨拶も、やっぱりキーボードで交わし、絶対に声にしてはいけない。で、無言のまま散会する。
 そういう集まりだ。オフオン会。どうかなこういうのは。
 おっと、オンオフのオイシイとこ取りをしたつもりでいたが、これではオイシイとこ取りとは言えないな。
チャットをしながらお互いの顔とかを生の映像として見ることができるのはいいが、しゃべっちゃいけないってことにしちゃうと、声を聞くことができない。オフ会の魅力は、お互いのツラや何やを見ることだけでなく、声を聞くことにもあるんだから、これを禁止してしまったら、オフ会の魅力は半減だ。
 じゃ、こうしよう。
 しゃべってはいけないが、うなってもいい。
 あるいは、しゃべってはいけないが、泣いてもいい。しゃべってはいけないが、吠えてもいい。しゃべってはいけないが、笑ってもいい。要するに、声はどんどん出していいが、「言葉」にしてはいけない。
 これで文句はあるまい。
 あと、今んとこ、いわゆる「マルチメディア」で実現できていない、嗅覚や触覚に訴える作戦も許可する。香水をたんまりつけてきたり、汗臭かったり、髪を撫でたり、唇を重ねたり、あるいはもっと本格的にやっていただいてもかまわない。味覚もありだな。おいしいものを一緒に食べて満足したり、まずいものを食べて一緒に吐いたりしてもいい。
 しゃべらなければそれでいいのだ。口でしゃべらず指でしゃべる。会場には、「ガハハ」「ヒーッ」「グエッ」「キャー」「ああ」と、笑い声や泣き声、うめき声、叫び声だけがこだまする。それと、カチャカチャと指がしゃべくる音だけが。そんなある日のことだった。小夜子は左手の小指に、妙な斑点があるのを見つけた。ちょうどキートップに当たる、指先の部分だ。湿疹のようなものではない。だいたい、色がおかしい。オリーブ色をもう少し濃くしたような濁った緑色だ。その緑色の小さな斑点が、6、7個固まってある。
「なんだろう。」
 小夜子はつぶやいた。
 はじめは、塗料か何かが指についたのかと思ったが、じっと見ていると、ゆっくりとゆっくりと、次第に斑点が大きくなってくるではないか。
「どうしよう。お医者さんに行かなくっちゃ。」
 だがしかし、外は嵐だ。窓には激しく雨が打ちつける。テレビはこれが、戦後最大級の台風だと告げている。通りに人影はない。
 小夜子は窓の外と小指の斑点に、交互に目を遣る。斑点が大きくなる速度が上がっている。あっと言う間に6、7個の斑点はつながってひとつになり、小指の第一関節のあたりまで広がってきた。不思議と痛みも痒みも痺れも何もないが、戦後最大級の台風など躊躇してる場合ではない。
 小夜子は傘を持って家を飛び出した。だが、傘が役に立つわけがない。傘を投げ捨て、小夜子は走った。走った。雨は容赦なく打ちつける。風は小夜子の体を押し戻す。
「ああどうしよう。船を沖に出すのを忘れちゃった。」
 小夜子は漁師だった。
 小指のことよりまず、自分の船だ。船を台風から守らなくてはいけない。小夜子はきびすを返した。港は医者とは逆の方向だ。向かい風からいっきに追い風になった。風に乗せられて、まるで飛んでいるような恐ろしいほどの速さで小夜子は走る。
「ラクチンだわ」
 小夜子はつぶやいた。
 速い。速いぞ小夜子。
 向こうに人影がひとつ見える。こちらに向かってくるようだ。なんと、町医者の平七先生ではないか。
「ラッキィ! 平七せんせえー!」
「おうおう、小夜ちゃんじゃねえか。どうしたんだいこんなところで。」
「先生、この指。あれ?」
 不思議なことに、平七先生に診てもらおうと差し出した小指は、いつの間にか、緑の斑点が消えて元通りになっていた。
「ん? 小指がどうかしたのか?」
 いぶかる平七先生に、小夜子は事の次第を話した。平七先生は「うんうん」とせわしく頷いて話をひととおり聞いてから、静かに言った。
「小夜ちゃん、そりゃ、チャットのやりすぎだよ。チャットばかりやって全然外に出てなかったんだろ、最近。」
「ええまあ。確かに一度、オフオン会に出てからはまた家にこもりっきりかもしれない。」
「だから、オフ会の精が、ちょっといたずらしたのさ。」
「オフ会の精?」
「ああ。いるんだよ、そういうのが。パソ通ばかりやって家にこもりっきりの娘を見つけて、外に出るように仕向けるのさ。いろんな手を使ってね。」
「はあ。」
「その証拠に、僕と会っただけですっかり治っちゃっただろ。」
「ええ。でも。」
「君と僕との2人だけのオフ会さ。僕はちょっと、オフ会の精に感謝しちゃうな。」
「え? 先生、私のこと、」
「愛しているよ。このまま君と嵐の中をずっと、ずっと、歩いていたい。」
「先生、嬉しい。私もずっと、ずっと前から先生のことを、」
「小夜ちゃん!」
「先生!」
「小夜ちゃん!」
「先生!」
「小夜ちゃん!」
「先生!」
「うぉおぉぉぉぉ!」
 そうして2人は嵐の中で結ばれたのだった。
 しかし、小夜子の船は台風にやられた。

 後で知ったことだが、平七先生と小夜子は同じネット(確か、ティーネットとか、そんな名前)の常連で、平七先生のハンドルネームは「たいらセブン」、小夜子のハンドルネームは「さよぴー」だったそうだ。今となっては昔の話である。
 で、なんの話かって? 私にもよーわからんが、一応オフオン会の話らしい。オフオン会、どうすかね。いいと思うけどな私は。セッティングが大変だけどね。(第1回おわり)


デジ専第2回
■正直先生とソフマップの問題■
1995年10月執筆

 これは大きな問題である。
 正直先生も正直特集9月14日号で書いていたが、私と正直先生は秋葉原のソフマップ2号店で、何度も出くわしてしまう。正直先生は「3回」と書いていたが、もっと多い気がするなあ。
 いや、やっぱり3回だったかもしれない。でも、3回だとしても、これはスゴイ回数だと思う。だって、私があの店に生まれて初めて行ったのは、去年のゴールデンウィークなのだから。
 その後私は、確かにパソコンショップに足繁く通うようになったが、必ずしも秋葉原に行くわけではなく、西新宿に行くことの方が多いし、渋谷や六本木ステップや他の街のパソコンショップに行くことも少なくない。それに、たとえ同じ日の同じ時間に秋葉原にいたとしても、私にとってソフマップ2号店は、いろいろ回る店のうちのひとつにすぎず、店内滞在時間は短いから、行き合わない可能性の方が高いと思う。
 それなのにああそれなのに、ソフマップには正直先生がいるのだ。ただごとではない。
 私は覚えている。ソフマップで正直先生と出くわす時は、必ず先に正直先生の方がソフマップにいるのだ。私があの店に入ると、そこに正直先生がいる。「正直先生が店に入ると私がいる」のではない。
 そう、それに、ソフマップでは何度も会ってるのに、ステップやインコムやラオックスやその他たくさんの店で、一度も正直先生と出会ったことはない。
 さらにさらに、私にはマックユーザーの知り合いがたくさんいるけれど、正直先生以外の知り合いとは、あの店でたったひとりと一度だけ出くわしたことがあるだけなのだ。正直先生とは3回以上も会ってるのにだ。
 この前会った時は、不思議だった。私は中央通りをソフマップに向かって歩いているうちに、確信したのだ。絶対、正直先生に会うなと。どうしてそんな確信が持てたのかはわからない。だが、どうしようもなく確信してしまったのだ。案の定、店に入るとそこには、ダイナフォント17書体パックを手に、托鉢僧のように身じろぎせずに佇んでいる正直先生の後ろ姿があった。正直先生とソフマップが分かちがたく醸し出す、強い「気」のようなものを私は中央通りで感じ取ったのかもしれない。
 さて、以上の私の証言を総合するとどうなるか。答えは誰の目にも明らかだろう。  正直先生は秋葉原ソフマップ2号店に住んでいるのだ。
 私が正直先生と出くわした時は、正直先生はたまたま家の中でぶらぶらしてたってわけだ。店に行っても正直先生がいない時は、きっと文京区かどこかに外出してたんだろう。
 そう、私は文京区にある正直先生の家(と本人が言っているマンション)に、2、3度行ったことがある。しかし、あれは巧妙なカムフラージュだったのだ。
 正直先生だって、人間なんだから、たまにはウソをつくこともあるんだなあと思った。おわり。

<関係ないけど>
 TBプラネットワクタさんの「不思議少年は明大に多い説」を支持します。といっても、ワクタさんが明大卒不思議少年として挙げたあがた森魚さんのことを私はよく知らず、秋山想さんや「ウチのおやじ」さんのことは全然知らず、ただひとり、少年マルタ君だけを思い浮かべてるんですが。それでどうして支持できるのかというと、昔、宝島編集部にいた明大出身の田中さんも、ちょっと不思議少年臭かったからです。それに、明大出身の故三木武夫元首相も不思議少年臭いです。「モダーンミュージック」という明大前にあるレコード屋さんも不思議少年臭いです。キッドアイラックホールも「キッド」ですし、不思議少年臭いです。明大には何かがあります。ワクタさんの今後の研究に期待します。


デジ専第3回
■スピードダブラーの問題■
1995年12月執筆

 折角オンライン・マガジンだってのに、ちょい古い情報で恐縮だが、アキバを歩き回って、こんなことを調べてみた。

 よって、マックギャラリーが、スピードダブラー大賞。これを読んでアキバに行ってみたら、まるで違う結果が出るかもしれんので、面白いからやってみよう。ただし、時間を無駄にする覚悟を怠りなく。
 ではまた次回。
 ってのはあまりにひどいので、ちょっと続けると、私はここんとこずっと、スピードというものに、やたら魅力を感じている。速いということは、それだけで美しいことだと思う。そんなこと、改めて言われなくても、世界陸上でも見ればわかることだ。でも、今は世界陸上はやってないので、改めて言うのであった。
 もちろん、のろいことも美しい。のろいのは大好きだ。正直先生は、仕事は速いが全般的にのろい人だ。私は正直先生ののろさがとても好きだ。
 でも、速いことの魅力は単純でわかりやすい。私は今、そのわかりやすさに惹かれるのだ。パワーマック9500/132がほしい。
 ではまた次回。
 って、やっぱりひどい終わり方だが、速度の問題については改めてまた、「デジ専」またはその他で書こう。


デジ専第4回
■互換の問題■
1996年3月執筆

 「上位互換」っていう言葉がある。
 例えば、あるソフトがバージョン1.0から2.0にバージョンアップしたとする。1.0で作ったファイルは2.0でも開くことができるが、2.0で作ったファイルは1.0では開くことができないってのは、よくあること。こういうのを上位互換という。
 あるいは、230MBのMOドライブ。これは230MBのMOディスクを読み書きするためのドライブだが、128MBのMOディスクも読み書きできる。ところが、128MBのMOドライブでは、230MBのMOディスクを読み書きすることはできない。これも上位互換だ。
 多くの人が感じることだろうが、これはおかしな言葉だ。だって「互換」とは、言うまでもなく「お互いに取り換えっこできる」ってこと。お互いが対等な立場にないといけない。上の例で言うと、バージョン1.0でも2.0のファイルが開かなきゃいけない。128MBのMOドライブでも230MBのMOディスクが読み書きできなきゃいけない。そうじゃないのに「互換」って呼ぶのはおかしい。
 だからこそ、単なる「互換」じゃなく、「上位」という言葉をくっつけて「上位互換」ってことにしたわけで、そうするとまあ、言わんとすることはわかる。でもやっぱり変な言葉だ。でも気持ちはわかる。でも変。でもわかる。でも……と、「上位互換」って言葉を見るたびに、私の心は揺れる。もうちょっとすっきりした言葉にできないんだろか。
 そこでひとつ、相談したい。「上位互換」とは、上の者は下の者をこき使えるが、下の者は上の者を使えないってことだから、要するに、会社と同じだ。だったら「上位互換」じゃなくて「会社」って呼ぶことにできないだろうか。「HSディスクドライブは230MBや128MBのMOディスクと会社じゃないからなあ」ってな感じ。そうすると「そうか、会社じゃないのか。じゃあ取引できないな」と、HSを敬遠する人もいるだろう。ほら、話がとてもわかりやすくなる。っつうことで、以後よろしく。
 ところで、ある会社と客が何かもめた時、応対に出た社員と話してても埒があかなくなると、客が「おまえじゃダメだ、上の人間を出せ」って言ったりする。この場合はどう考えたらいいんだろう。心が揺れる。客は下っ端の社員とは互換性がなく、お偉いさんと互換性があるということだろうか。だとすると、これこそ「上位互換」って言葉がぴったり来るぞ。
 ではまた。


おまけ
■デジコミと異種コミ■
1996年5月執筆

 マックはただの道具だ……と言い捨てるのが、正しいらしい。そう言い切って、マッキントッシュをさらりと使いこなすのがカッコイイ。ただの道具じゃないかもと思っちゃったりしても、「ただの道具だ」と自分に言い聞かせる。マックを道具以上の存在として扱う人は「おたく」で「本末転倒」で「パソコンに使われる哀れなヤツ」なんだそうだ。
 アッカンベー、だ。マックが「ただの道具」のわけがないだろ。もし「ただの道具」だとしたら、絶対許さん。こんなにめんどくさい道具は、いらん。
 そりゃ、マックは道具だ。だが「ただの道具」じゃない。自分のマックに名前を付けてかわいがる人は多いが、その人たちにとってマックは生き物だ。気持ち悪いか? そう思うのは勝手だが、現に、名前を付ける人が多いという事実を曲げることはできない。
 マックが生き物かどうかは別にして(生き物と言い切ってもいいが)、マックとの間にコミュニケーションが成り立つというのは間違いない。キーを叩けば入力され、それがモニタに出力され、それを見てまたキーを叩くというのも、立派なコミュニケーションだ。だからワープロ専用機とのコミュニケーションも成り立つが、マックとの方がより複雑なコミュニケーションが成立する。そしてそれ自体が面白い。マックを自分のものとして使ってる人なら重々承知してるはずだ。それをなぜ認めたがらないのか、私にはさーっぱりわからん。何を気取ってるんだ君たちは。
 だが、マックは生き物ではあるかもしれないが、人間ではない。だから、マックとコミュニケーションする時、同時にディスコミュニケーションの感覚を、常に強く味わう。
 今、私がマックとともにハマッてるのが、いわゆる異種間コミュニケーション。私の場合は、モンゴルなどに伝わるひとり二重唱、ホーミーで異種コミを試みている。最近では、ザトウクジラやリス、野鳥との異種コミを楽しんだ。異種コミでも、コミュニケーションしてる感触と、ディスコミュニケーションに陥ってる感覚の両方を等分に味わう。相手と深く関わっている濃密さと、全然無関係かもしれない希薄さが同居するその感覚は、悲しいくらいに気持ちいい。
 私にとってはマックもクジラも同じこと、等価だ。そしてもうひとつ、私が今ハマッてるもの、パソコン通信も、異種コミに近い。パソコン通信の会議室で様々な人とやりとりする時、私は相手を人間とは思っていない。私はアップロードされたメッセージの背後にある人格とは関わってるが、それは生身の人間とは別の生き物だと思っている。そういう気持ちでやりとりしてると、やはり、濃密なコミュニケーションの感覚とディスコミュニケーションの感覚を等分に味わう。
 「デジタルは無味乾燥で人間味がなくて嫌だ」と、デジタル文化を門前払いする人がいる。そういう人は、きっと野生動物も植物も、無味乾燥で人間味がなくて嫌なのだろう。私にとっては、その「人間味のなさ」こそが素晴らしい。人間味がないとともに、人間味なんかより恐ろしく濃密な世界が存在するから面白い。私には、マックも異種コミもパソコン通信も、まさにデジタルデータのように等価だ。等価に気持ちいい。人間味溢れるつき合いなんて、どうでもいい……結局、テクノってことか。じゃ、クジラもテクノ。


筆無精なもんで滅多に返事を書きませんが、それでも許して下さるならば、お便りはこちらへ
さるすべり中野(中野 純)

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さるすべり中野「デジ専」